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64年前の今日
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8月15日は終戦記念日。
64年前もこんなに暑い日たったのだろか。人々はどんな思いでこの日をむかえたのでしょう。

画像は1998年、息子が夏休みに鹿児島の実家で撮った写真です。(向かって左が 息子・8歳)
これは父が出征するとき、持っていった日の丸の旗で、戦地へ向かう父のために親戚や友人たちが書いてくれたんだそうです。

この時、はじめて目にしたこの日の丸の国旗。そこだけが異空間で言葉にできないくらいの威圧感があったのを覚えています。墨で書かれた文章はどれも達筆で、難しい言葉も沢山書かれてあって全部は読み取れなかったのですが、最後まで冗談など口にできないくらい圧倒されていました。子どもたちはどんな感想を持ったのでしょう。

何十年も家にいたのに、こんなものがあったなんて知りませんでした。
母が箱に入れて、何十年も仏壇の奥にしまいこんでいたのです。忘れていたのではなく、きっと出すといろんなことを思い出すのが嫌だったのだと思います。

戦争が終わって64年。あの時、父はどんな思いでこの日の丸を持って戦地へ向かったのだろう。そして、家族は。

父は戦争体験者ですが、戦地へは行っていません。今その時の父の年齢を計算すると20歳だと思います。父たちの部隊は終戦間じか、戦地へ向かうために佐世保(長崎)で戦地からやってくる船を待っていたそうです。しかし、父達が乗るはずの船が洋上で台風に遭い、足止めをくい、そうしているうちに終戦をむかえたそうです。
今でこそ、台風がきて良かったね、船が来なくて良かったと堂々といえるけれど、その当時は、戦地で亡くなった人たちのことを考えると、決して手放しで喜べなかったのだろうと思います。

私達が小さい頃、母は戦争の話をするのを嫌っていました。沢山は語らなかったけれど、唯一覚えているのが、空襲警報の中を逃げた母たち姉妹の話です。
母の父さん(祖父)が病気でなくなり、兄たちは戦地へ行き、家には女ばかり(6姉妹)が残っていたそうです。戦火の激しかった頃、母は15,6歳くらい。空襲警報のサイレンが鳴ると、普段から、おばあちゃんに子どもたちそれぞれに役割が与えられていて、ある姉妹には位牌を持たせ、ある姉妹は小さかった妹をおんぶし逃げること、そして、いつものあぜ道をひたすら走って防空壕へと逃げていたという話を聞かされました。 母は母のお母さんと最後に残って家の点検と戸締り、そして食べ物を持ち出すことだったそうです。

おば達からも同じ話を聞かされるので、そのうちに頭のなかに、母達の姿は映像としてでき上がってしまったのです。
映像はいつまでも頭の中にあって、他で戦争の話を聞くことがあると、必ず母達の必死であぜ道を逃げる姿が思い浮かぶのでした。


1945年に終戦をむかえ、戦争を経験した人たちはもう、おじいちゃん、おばあちゃんと言われる年齢です。これから戦争を語ってくれる人たちは年々少なくなっていくのでしょう。そのときに、遠い過去の話として終わらせるのではなく、いますぐにでも起きうる戦争について、次の世代が語り継いでいかなくてはならないと思うのです。

11年前神妙な面持ちで日の丸の旗を持っていた息子は今年19歳。父が戦争に行った歳とそんなに変りません。自分と同じ若者達が、あの頃背負っていた日の丸の重さなど想像もつかないでしょう。
今日、この写真をまた子ども達と一緒に見ようと思います。

by soleiljap | 2009-08-15 18:20
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